「象徴」=「本体」ではない
イチゴは、(少なくとも日本においては)ショートケーキの象徴とも呼べる存在だろう。
わざわざ「イチゴの」という冠詞を付けなくても、「ショートケーキ」と聞いたらほとんどの人はイチゴが載ったものをイメージするはずだ。
とは言え、イチゴがショートケーキの「本体」かと問われると、そうではない。
スポンジとクリームが層になって形成される「ケーキの生地部分」こそがショートケーキの本体な事に、疑いの余地はないだろう。
イチゴの代わりにバナナ、ピーチ、キウイなどを用いたショートケーキが存在するように、イチゴは「ショートケーキの必須要素」ではないのだ。
ただ、それはそれとして間違いなく「象徴」ではある、なんとも不思議な存在と言ってもいいだろう。
ロードレースにおける「ショートケーキのイチゴ」
前振りはここまでにして、本題…ロードレースの話に移ろう。
今回書きたいのは、ロードレースにおける「ショートケーキのイチゴ」とでも呼べる部分についてだ。
ロードレースと他のスポーツを比べた際によく特徴として挙げられる、「ドラマ性」や「ストーリー」という要素。
これが「ショートケーキのイチゴ」、つまり「象徴や大きな特徴であると同時に、本体ではない」という存在だと、個人的には考えている。
「レース」の本体ではないが、ロードレースを語る際に強調される、大きな特徴。
エースとアシストの関係性だったり、グランツールにおける3週間の展開だったり…とにかく様々な要素が、「ドラマ」として語られる。
そんな「ドラマ」が与えてくれる「感動」がロードレースを特別な存在にし、それこそがロードレースの魅力だと、語られたりもする。
エースのために全力を出し尽くし、遅れていくアシストの姿。
逆に、普段はアシストを務める選手が、栄光の勝利を狙う瞬間。
時折起こる、チームの垣根を超えた連携。
確かにこれらは、見る者の心を揺さぶる、今風に言えば「エモい」シーンなのは間違いない。
「ドラマ」は…本体ではない
だがここで、すこし落ち着いて考えてみたい。
「ドラマ」は、ロードレースの本体なのだろうか?
「ショートケーキのイチゴ」と同様に、「本体」ではなく、あくまで「象徴」ではないのだろうか?
つまり…もっと重きを置かれるべき要素があるのではないのだろうか?
まずはバシッと、個人的な見解を述べてしまおう。
「ドラマ」は、やはりロードレースの本体ではない。
ロードレースは「レース」という文字の通り、レース(競争)であり、プロ選手が勝敗を争うスポーツだ。
ショートケーキの生地の上にイチゴが載るように、「ドラマ」は「レース」の上で起こっている。
つまり…、ロードレースの本体とは、どう考えても「レース」なのだ。
記憶に新しい、2023年のブエルタ・ア・エスパーニャを例に考えてみよう。
開幕当初はアシストであると考えられていたユンボ・ヴィスマのセップ・クスが、ヨナス・ヴィンゲゴーとプリモシュ・ログリッチという強力なダブルエースを抑えての総合優勝と、相当な「エモさ」を有するレースだ。
このレースで大きく語られるのは、これまでアシストとして2人に尽くしてきたクスが掴んだ初の栄光という「ストーリー」、そして第17ステージで起こった「事件」だろう。
特に第17ステージ、アングリル山頂フィニッシュで起こった「事件」について、その後の反響も含めて、少し振り返ってみたい。
暫定で総合首位に立つクスが山頂付近で遅れた際に、ヴィンゲゴーとログリッチがクスを待たずに先行した事は、色々な意味で世界中に衝撃を与えた。
海外のメディアも含めて、このヴィンゲゴーとログリッチの動き…クスを置いていったユンボの判断に、否定的な声が多く聞こえた。
「なぜ総合首位のクスを置き去りにするのか?」
「クスを守る動きをしても、総合優勝には十分届くタイム差があるじゃないか」
「これまで2人に尽くしてきたクスに対して、この仕打ちはあまりにも可哀そうすぎる」
本当に多くの、そして様々な否定的な意見が、発せられていた。
まあ、気持ちは分かる。
自分も第17ステージのスタート前、心情的にはクスを応援していた。
「この最大の難所を無事に乗り越えて、総合優勝に届いてくれよ」と、祈っていた。
しかし、個人的にユンボの動きには、とても納得も出来た。
これまでグランツール総合で実績を残していないクスが遅れたのなら、ヴィンゲゴーとログリッチを優先するのは、とても自然な流れに見えたからだ。
ユンボとしては、「クスでの総合優勝や表彰台独占を睨みながらの、不確実な総合優勝」よりも、「確実な総合優勝」を狙っていたのだろう。
グランツールの総合争いにおいて、ここ2年のユンボはそういった「シビアさ」をもって戦略を立てていたように感じていたので、このブエルタ第17ステージもその流れの延長線上にあると考えれば、何も不自然には思わなかった。
相変わらずユンボは本気でグランツール総合優勝を目指している、そしてクスはなんとかタイム差を最小限に抑えて、総合首位を守ることが出来た。
誰も「不幸せ」にならない形に落ち着いたなと、自分はそんな風に考えていた。
だから、X(旧Twitter)で聞こえてくる意見が、ユンボの動きに対して否定的なものが多かったのは結構驚いた。
どうやら自分が思っている以上に、「ドラマ」や「ストーリー」を重視する人、そして「望む形のそれを求める」人が多いらしい…。
もちろん、自分だって「ドラマ」に感動するし、レースで起こったそれを普通に楽しむ。
それでも、「望む形にならなかった」からと言って、チームや、その要因となった選手を批判しようとは思えない。
それは、選手や競技に対するリスペクトを欠いた行為だと考えているからだ。
今回の例で言えば、当然の権利として勝利を求めたヴィンゲゴーとログリッチに対して、リスクを負いながらもシビアな判断を下したユンボに対して、あまりにもリスペクトが無い。
そして何より、クスに対してもリスペクトを欠いている。
クスに向かって、「本来は総合優勝に相応しい実力はないけど、これまでの貢献や献身に対する報酬として、総合優勝を譲ってあげてほしい」という評価を突き付けているようなものだ。
気が付いていないのかもしれないが、それはあまりにも失礼だろう。
「当事者」への、自分の評価
語弊を恐れずに言えば、「ドラマ」という「本体ではない部分」を「過剰に求める」から、こんな反応になるのだと思っている。
レースは、当然ながら「レースとして」成り立っている。
選手は、観戦者に「ドラマを与えるため」に走っている訳では無い。
もちろん、起こった「ドラマ」に対して感動するのはある意味当然の反応であり、それを受け取り楽しむのは、ロードレースを観戦する上での権利ではある。
しかし、「起こらなかったドラマ」や、「思い通りにいかなかったストーリー」に対して不満を持つのは…、最大限言葉を選んで「健全ではない」と言ったところか。
それはやはり不自然であり、歪みを生みかねない。
改めて、2023年のブエルタ第17ステージ、自分はこんな感じの評価を当事者に対して抱いている。
まず、ヴィンゲゴーとログリッチは、素直に強かった。
2人とも、その実績に違わない素晴らしい走りだったと、当然のように評価している。
続いて、ユンボというチームに対しては、その一貫したシビアさと、徹底した総合優勝への拘りを、最大限に評価している。
クスが遅れたあの場面、2人に先行させるのが苦渋の判断だったのは想像に難くない。
それでも、このチームならあの判断を下すと思わせるに十分な、ここ2年のグランツール総合の戦い方を、自分は敬意を持って評価している。
今回の例以外でも、2023年のツール・ド・フランス第17ステージ、最大のライバルであったタデイ・ポガチャルが早々に遅れ、もはや追撃の意味などあまりないようにも思えた状況において、前待ちからの攻撃を実行したあのシビアさ。
2020年のツールで大逆転を喫してしまったからこそ身に着けたであろうその徹底ぶりに、自分は美しさすら感じている。
そして、クス。
ブエルタ開幕当初は、総合エースではなかった。
第6ステージでチームから「逃げ」のオーダーが出た事、そして他のチームから逃げを容認された事からも、それは明らかだろう。
しかし、第6ステージでそのまま逃げ切り勝利を飾り、総合首位に浮上した事で、徐々に話が変わってくる。
苦手としてきた個人タイムトライアルでも大きくタイムを失わず、総合首位をキープ。
そして件の第17ステージ、あそこで大きく遅れていたら、当然ながらエース交代だった。
しかし、クスは調子が悪いながらも、遅れを僅か19秒に抑えてフィニッシュした。
その結果下された、「この先のステージではクスを守りながら戦う」という判断。
クスはその登坂力をもってして総合首位の座を守り抜き、ついにチームから「エースに価する」との評価を得たのだ。
かねてから「最強クラス」と評されてきたその登坂力、そして個人タイムトライアルを筆頭とした明らかな成長。
間違いなく、クス自身の力で掴み取った、総合優勝という栄光。
その強さを素直に称えると同時に、ここまの道筋も含めて祝福したい。
楽しみ方は「自由」ではあるが…
ロードレースには「競技面」や「ドラマ性」以外にも様々な魅力があり、それらをどのように楽しむのかは、それぞれの人に委ねられている。
しかしながら、やはり「本体」と呼ぶべき要素は「レース」であり、そこへのリスペクトだけは欠いてはいけない、と言うのが今回の記事で書きたかった事だ。
レースで起こった事を、どの角度から受け止めて、どんな解釈をして、それをSNS等でどのように発信するのか。
それは「自由」であると同時に、選手やチームや競技全体へのリスペクトを欠いたものは、当然好ましくないだろう。
確かに、レースを見ていて「なぜそんな動きになった?」と思う事象や、「どうしてこうならなかった…」と思う事は、時折ある。
しかし、我々観戦者はあくまで「部外者」であり、現場で何が起こっていたのか、内部でどんなやり取りがあった末に起こった事象なのかは、完全に理解する術がない。
選手の状態、その走りの意図、チーム事情…、そういった様々な要因を、我々観戦者は画面を通じて、表面的に捉える事しか出来ていないのだ。
その部分を推測する際に、どうか最低限のリスペクトを。
選手、チーム、競技へ、リスペクトを。
SNSで選手やチームへの「心無い発信」を見かけると、こう思わずにいられなかった。
「ドラマ」的な要素は、確かに刺激的で、なかなか他では得難い感動を与えてくれる事も多い。
しかし、極論を言ってしまえば、そういった「ドラマ」はロードレース以外のスポーツにだって起きている。
もっと言ってしまえば、「ドラマ」が欲しいなら、別にスポーツで無くてもいいではないか。
イチゴを食べたいなら、別にショートケーキに拘る必要もない。
「ドラマ」が欲しいだけなら、ロードレースに拘る必要なんてない、そうだろう?
「ドラマ」を重視しつつロードレース観戦が好きな人は、当たり前の事かもしれないが、結局のところロードレース全体のバランスが好きなのだと思う。
イチゴ単体ではない、そしてプレーンなスポンジケーキでもない、イチゴのショートケーキが愛されるように、ロードレースの「バランス」は、確かに愛されるに相応しい魅力を放っている。
その上で、やはりロードレースは「レース」であり、最もリスペクトされるべき部分は「競技面」だと、自分は考えている。
再三にはなるが、「ドラマ」を過剰に求めると、きっとどこかで歪みが生まれる。
ショートケーキを押し潰す巨大なイチゴが載っているような、歪みが生まれてしまう。
自分は、イチゴで潰れたショートケーキは食べたくない。
ショートケーキに、巨大すぎるイチゴを載せたくない。
どうか皆さんも、ショートケーキに合ったイチゴを。
適切なイチゴを載せれば、ショートケーキはやはり美味しいのだから。
適切なリスペクトと共にレースのドラマを楽しめば、ロードレースはやはり面白いのだから。